南三陸町の様子(2014年3月13日〜14日)

 防災庁舎です。見るたびに心が痛みます。2013年10月頃に

解体するということにいったん決まったようですが、保存という動き

もまた出てきて、この先どうするかは保留だそうです。

 防災庁舎の前には、未だに犠牲者の冥福を祈る花が絶えること

はありません。
 防災庁舎から見た志津川地区の様子ですが、きれいに整地され

ています。
 右奥の建物が「高野会館」。その前の盛り土されているところが

志津川病院のあったところ。左奥の向こう側の盛り土されている

ところが、がれきが積んであったところ。
 「南三陸さんさん商店街」の入口です。2012年2月頃、復興を

目指してオープンしました。
 「キラキラ春つげ丼」です。おいしそうでしょ。
 「さんさん商店街」の中の様子です。食堂やお土産物屋さんが

ありました。
 「さんさん商店街」の入口付近にあるモアイ像の前に記念写真を

撮るところがあります。2日目解散前にここで写真を撮りました。
 志津川駅です。以前来た時からあまり変わっていないです。
 盛り土されているところが、戸倉小学校があった場所です。
 戸倉小学校が急遽避難場所に決めた裏山です。
 その裏山の鳥居のところに造られた「東日本大震災記念碑」です。

そこの最初の部分に「未来の人々へ  地震があったら、この地

よりも高いところへ逃げること」 と書いてあります。
 記念碑のところまで、津波がきたそうです。震災当日は、階段を

上がって避難しました。
 階段上がったところが、この場所です。ここで一夜明かしたそう

です。寒かったので、小さい子どもたちは、ほこらの中で過ごした

ようです。
 ほこらのあるところから下の海岸部分を見下ろした風景です。

かなり下から津波が押し寄せてきたことが分かります。
 戸倉中学校です。震災以後この校舎は使われていません。ここの

中学生は、志津川中学校の校舎を借りて授業を受けています。
 地震の起こった時間である2時47分くらいで止まっています。
 戸倉中学校の職員室であったところです。前の黒板には、震災の

次の日に卒業式があることが書かれています。
 戸倉中学校の校舎側から見た体育館です。右に体育館へ行く

廊下の手すりと屋根が見えます。左には仮設住宅があります。
 その廊下の様子です。この左側が海側ですが、津波は右側から、

校舎を回り込んできたそうです。
 運動場のあったところで、仮設住宅になっています。
 高野会館です。
 高野会館の入口です。ここで、館長さんがここから逃げようとする

人々に「この会館にいるほうが安全だ」と説いて、人々を屋上に避難

させ救ったそうです。
 JR気仙沼線の清水浜駅です。震災から手つかずの状態です。
 清水浜駅近辺ですが、線路が敷かれてあった土台が分断されて

います。
 清水浜駅の階段部分です。行った日の2〜3日前から通行止めに

なりました。
 南三陸町から沖縄の西表島まで流れていったポストです。いろん

な想いを持っていったのかもしれません。おかえりなさい。
 ボランティア活動です。ワカメを並べて束ねています。
 上と同じ作業です。奥にいるタオルを頭に巻いている人が、ここの

ご主人である高橋さんです。
 この作業するところは、当たり前ですが、暖房を入れることはでき

ませんので、とても寒いですし、外は強い風が吹いていて、その風の

音がすごいです。
 これも同じ作業です。
 このコンテナに束ねたワカメを入れていきます。
 休憩の時にごちそうになった「めかぶ」と「ワカメ」です。本当に、

おいしかったです。
 みなさん、いただいています。
 これは、ワカメの茎から葉を取る作業です。
 これも同じ作業です。
 向かって右側の手で茎を持って支え、左側の手で葉の部分を

取っています。
 葉の部分を取った後は、先端から指を広げた長さ分ぐらいが茎

の部分として少し残ります。
 ボランティア活動した高橋さん宅です。
 志津川中学校から見た南三陸町志津川地区の様子です。
 同じく志津川中学校から見たところですが、手前に盛り土をこれ

からしていこうというところがあります。
 防災庁舎が見えます。海岸部分も見えます。
 左側の山の切り開いている所から道路が寸断されています。そこ

から右の方に橋が架かっていたそうですが、津波で流されました。

右の茶色のかたまりは、その橋を造っていた鉄骨部分が屑となって

最近ようやく集められたそうです。
 その近くに、「伊里前福幸商店街」があります。そして、車のある

ところがバス停になっていて、ここからバスに乗って、南三陸町を

後にしました。